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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

苦の世界

布教研究所所員・旭川 光妙寺住職 椿澤舜寛

  人間そのものが苦の器であり、人生は苦に満ちているという現実認識をいう。人生における苦の現実を釈尊は率直に認め、苦から脱出すべき修業を各人が実行するべきであると主張した。無苦安穏・抜苦与楽が人生問題の根本であって、単なる厭世主義とは異なるものである。

(1)生(しょう)  

誕生は苦なりと認識することであり、また受胎から出産までの苦しみを云う。誕生は苦の出発点である。

(2)老(ろう)  

老いることは苦なりと認識することであるが、どんな上等な化粧品を使っても、どんな美容法を行っても、どんなスポーツをしても老化を防ぐ方法はない。

(3)病(びよう)  

病は苦なりと認識することであるが、人間である以上、病気から逃れることはできない。

(4)死(し)

 死は苦なりと認識することであるが、死を目前にした人は誰れでも恐れおののく。  
この生老病死を四苦と云う。

(5)愛別離苦(あいべつりく)  

愛する者と別れる苦しみを云う。

(6)怨憎会苦(おんぞうえく)  

怨み憎む人に会う苦しみを云う。「あんな奴の顔は二度と見たくない」とか「あんなのに二度と頼むものか」などと思っても、世の中そうはいかないのが常である。

(7)求不得苦(ぐふとっく)  

求めるものが得られない苦しみ。人間には根本的・本能的な欲望(渇愛)がある。人生において、その欲望を完全に満たすことは不可能である。どんな長者であろうとも、お金ですべてを得られるわけではない。貧しい人も億万長者も欲望を満たす程度に差こそあれ、求めるものがすべて得られるわけではない。

(8)五陰盛苦(ごおんじょうく)  

人間そのものが苦の器であり、心身に執着するのも苦であることを云う。  五陰は五蘊(ごうん)とも云い、人間を形成する物質と精神を五つに分類したものである。

一、色(しき)。身体・肉体のこと。
二、受(じゅ)。印象・感覚あるいは単純な感情を云う。
三、想(そう)。心に浮かべる像のこと。
四、行(ぎょう)。意志または衝動的欲求の心。
五、識(しき)。心の作用を総合した心の活動。認識・識別または意識活動を云う。  

物質面(色)と心(他の四つ)が集まって人間は形成されており、一つ一つ独立したものではない。これを色心不二と云い、色(肉体)と心とは一に非ず、二に非ずという意味である。これは仏教における無我論の根拠となっており、人間そのものが苦の器であることを意味している。
 また盛苦とは、五陰の器にいろいろな苦を盛る意味である。
 以上の八つを四苦八苦と云う。一般的に四苦八苦と云う言葉の使われ方は、どうにもならないとか、やり繰りするのに大変だ、とかの意味に使われているが、四苦八苦の意味を正確に覚えている人は案外少ない。  

  この苦の世界は一切皆苦とも云われ、人間として、また人生そのものが苦の世界であることを表現した言葉である。  四苦八苦の他に三苦が説かれている。

(9)苦苦(くく)  
病気の飢餓などの苦から生ずる身心の苦悩をいう。苦痛を苦とする状態であり、苦が苦を呼ぶ状態のことをいう。

(10)壊苦(えく)  
自己の愛したものが破滅するときに感ずる苦悩。栄枯盛衰世の習いと言われるように、努力して得た地位や名誉や財産を失うことがあり、愛する人や親しい人と死別することがある。すなわち幸福だと思っている状態が、何らかの事情で破壊滅亡すると苦に変ることを言う。幸福と不幸は表裏一体である。

(11)行苦(きょうく)  

世の無常転変であることから受ける苦。行苦の行は遷流の意味である。幸福な状態がいつまでも続かないから無常であり無我なのである。逆に言えば、無常であり無我であるから幸福な状能が続かないのである。また、不幸な状態がいつまでも続かないから、我々は希望が持てるのである。

 以上の四苦八苦と三苦を総称して一切皆苦と言う。この一切皆苦という認識は、現実世界を如実に認識することであり、誰もが認めざるを得ない真理である。釈尊は人生における苦の現実を率直に認め、その苦をいかにして超克するか、そこに人生の根本的問題があると説いたのである。

 この世を婆裟(しゃば)と言うが、裟婆とは「忍ぶ」という意味であって人生における苦悩を堪え忍ばなければならないから裟婆と言うのである。また、我々人間の住んでいるこの世のことを苦域(くいき)とも言う。

「三界は安きことなし。なお火宅のごとし。衆苦充満して、はなはだ怖畏(ふい)すべし。つねに生老病死の憂患(うげん)あり。かくのごとき等(ら)の火、熾然(しねん)としてやまず。如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然(じゃくねん)として閑居(げんこ)し林野に安処(あんしょ)せり。今この三界は皆これ我が有(う)なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり。しかも今の処は、もろもろの患難(げんなん)多し。ただ我れ一人のみ、よく救護(くご)をなす。」(法華経)

 これは三界火宅の譬喩である。三界とは三つの迷いの世界(欲界・色界・無色界)のことであるが、その三界の苦しみの状態を火のついた家にたとえたものである。

 この仏教の一切皆苦という認識は、一見厭世主義のように見えるかもしれない。確かに仏教史中俗世界を避けて山中に引きこもってしまう逃避的傾向がしばしば見られた。しかし、仏教を厭世思想と考えるのは正しい見方ではない。釈尊は体験的に人生の深刻な苦を認識し、その苦の現実を直視することによって、苦の原因と苦を超克解脱する方法と、修行という努力によって無苦安楽の世界に至ることができたのである。

 したがって、釈尊は苦の現実から逃避したのではなくして、苦に向って行ったのであって厭世主義という評価はあたらない。応病与楽、対機説法といわれる釈尊の説法はこの抜苦与楽という四諦を説いたものである。

 会社経営など何でもそうであるが、現状打開やさらに規模を延ばすことを考える場合、現状認識が必要不可欠となる。仏教とても同じことである。

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