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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

日蓮聖人とお酒

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 日本の酒造りは長い歴史を持っています。古代では米をかみ砕いて発酵させて作っていました。(大隅風土記)やがて、朝鮮や中国からの渡来人が酒造りの技術を伝え、「濁り酒」から「清酒」へと移っていきました。

 中世になると店頭で酒を売るようになり、また、家庭でも酒造りをしていました。「待酒」(まちざけ)という語が残っています。戦に行ったり、旅に出た夫の帰りを待って妻が作っていたお酒のことです。鎌倉幕府が鎌倉での酒の販売を禁じたという記録もあります。(東鏡・建長四年九月三十日)

 さて、日蓮聖人のお手紙の中に、日蓮聖人にお酒を御供養した信者方へのお礼状が十五通残っています。お酒の外に色々な物を差し上げていますが、今回は酒だけについて見ることにしました。一番早い時期のものでは、日蓮聖人が伊豆の伊東におられた四十歳の時に、量は不明ですが、「さけ」をひそかに届けたのが、伊豆法難の時日蓮聖人を「爼岩」よりお救いした船守弥三郎でした。次で聖人が鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)におられた五十歳の時、あの竜ノ口法難の時随行した四条金吾で、金吾の男児安産のお祝いとして「酒」を御供養した事に対する聖人のお礼状があります。あとの十三通は、みな日蓮聖人が身延山へ入られてからのものです。

 日蓮聖人は五十三歳の六月十七日に身延山へお入りになりましたが、身延山の冬は殊に雪深く寒く、都からも遠く、ご不自由な日常が続き、入山後三年半の五十六歳の十二月三十日には発病され、六十一歳ご入滅までの五年間、下痢に悩まされておられました。信者の方々は、大変心配され、お身体を温めるためにお酒をお届になったのでしょう。

 ご病気になられる前のお酒のお礼状は三通で、ご病気になられてからが十通あります。

 さて、届けられたお酒の種類では、「甘酒」が一おけで一通。「古酒」「酒」「三年の古酒」と書かれてあるのが八通。明らかに「清酒」とわかる表現のものが六通あります。これを考えてみますと、「甘酒」と「清酒」以外の「酒」は「濁り酒」ではないかと思われます。「濁り酒」と書かれたものは一通もありません。お酒はどれも竹筒に入っていたと思われます。届けられた量は「二管」とあるのが一通、「大筒一、小筒一」と同時に二本届けられたのが一通。一筒が十通。数が書かれていないのが二通あります。先に述べた「甘酒」だけが「おけ」に入っていました。交通事情も悪く、馬の背や人が背負っての運搬で身延山を訪ね、酒以外に米や餅や、その他の食糧や、日用品等をお届けしたのですから、御供養する方も大変な苦労をした事でしょう。身延山でお酒を作ったという記録はありません。

 日蓮聖人のおそばには最初は数人のお弟子様よりおりませんでしたが、だんだん増えていき、五十七歳の時には四十人から五十人。五十八歳の時には百人とお手紙に書かれています。お手紙に書かれていないお酒も届けられたと考えられますが、日蓮聖人はお薬代わりとして、信者の方々の芳情に感謝されつつ味あわれた事でしょう。

 お酒のことを「酒」「さけ」「千日」「聖人」「せいす(清酒)」と書かれています。「千日」と書いて「さけ」と読むことは、中国の故事に、劉 玄石という人が良酒を飲み、「一酔千日醒めず」というのがあり、醇酒(美味しい酒)のことを「千日」といいます。また、「聖人」と書いて「さけ」と読むのは、中国の「魏志」に「清酒」を「聖人」といい「濁り酒」を「賢人」と呼んだという故事から「聖人」と書かれたのです。酒の表現もなかなか味がありますね。

 四条金吾という方は、武士でしたが、彼にあてたお手紙の中に「人を集めて酒盛りをする時は夜は止めなさい。酒盛りをしていると、心に油断と隙(すき)が出来て賊におそわれる心配がありますよ。」というのがあります。武士の平常の心構えを説かれています。また、酒害を例に引いた文章の中に「大酒は地獄へおちる」とか、「酒に三十六の失(とが)あり」とか、「酒飲みはみみずの姿になる」とか、また「酒に水を入れて売っている者がある」と書かれています。 (顕謗法鈔)「女房と酒うち飲でなで御不足あるべき」(奥さん相手に酒を飲むことが一番幸せです)と日蓮聖人は申されました。酒は百薬の長として一家団らんの中で飲むのが一番いいということでしょう。

 日蓮聖人の御命日忌である「御会式」(おえしき)には、ぜひ日蓮聖人のお像にお酒をお供えし、ご一生のご苦労をしのび、広大な御慈悲に感謝報恩の誠を捧げましょう。

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