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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

お盆 先祖と語ろう

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 今は亡き人々に想いを馳せるもお盆である。

 遠く離れて暮らす人々が帰って来るのもお盆である。だからお盆には私達の先祖も私達の家に帰って来る。亡き人々、今生きている私達や、さらにはこれから生を受けるであろう人々が一同に集まり、共に語り合うのがお盆なのである。

 お盆を迎える行事は、時代によったり、地方によって色々な形がある。  しかし私達は祖先は、「お盆の心」をいろいろな形の中に、すなおな姿として今日に伝えてきたものであります。その「心」をたずねることは先祖との語らいなのではないか。  

  家族揃ってお迎えしょう。

 お盆あるいは夏の季語に「墓洗う」がある。いよいよお盆を迎える前に、私達はまず先祖の眠るお墓の0掃除をしたり、仏壇の掃除をしよう。なるべく家族全員で念入りにしたいものである。そうしたしんなで汗を流して一生懸命に掃除する心は「もうお盆ですねご先祖さま・・・・」と云う先祖との対話が始まっている。

 それからお精霊棚の飾り付けは、ご先祖を向かえる準備の中で大切なものの一つである。

 私達が父母から受け継いだ方法でよいから、「ご先祖様を迎えるのだ」と云う心掛けが大切なのである。 

 「精霊棚の飾り方」は、地方によって様々に伝えられているけれども、大体共通していることは、マコモを敷き、キュウリの馬とかナスの牛を飾り付けている。

 また、精霊棚の両脇には、少し笹の付いた青竹をたて、その竹と竹を素縄を張って、ほうづきなどを吊り下げる。  キュウリの馬、ナスの牛は昔の乗り物の代表であり、キュウリの馬はご先祖様が出来るだけ早く家に来て貰おうと云う想いが込められており、ナスの牛は、お盆を終えたご先祖様に少しでもゆっくりと帰って貰おうと云う直情が込められているのだと云う。マコモは暑い盛りの夏のことである。精霊様を少しでも涼しくお迎えしょうと云うさっぱりとした敷物である。

 また素縄にホウズキや野菜などをいろいろと吊り下げるのは、お盆の原語であるウランバ-ナ(逆さに吊り下げられた苦しみの意)を表現したものだと教えている。この中で、私達の先祖は、きっとこの精霊棚を前にして子供達に、「施すことを忘れたり、悪い事をするとこのように逆さに吊り下げられるような苦しみの報いを受けるのだよ・・・」とさとしたことだろう。

 ミソハギを添えることも忘れないようにしよう。洒水器(しゃすいき)の用意や、時々の果物とか、故人の好物だったものを供えたいものである。

 「甘露を以ってそそぐこと、熱をを除いて清涼を得るが如くならん。飢えた国より来たって、たちまち大王の膳に遭うが如し」と、法華経の経文の中でこのような功徳を教えている。

 多忙な毎日の生活に追われて生きている私達が、ひととき、心から今は亡き人達と語り合う。 できれば私達の子供、孫達にも何でも良いから供えるように話してみるのはどうだろう。「ご先祖様が帰って来るなんて迷信だよ」と云うだろうか?子供達はきっと立派な供物を用意するだろう。それでこそ本当のご先祖様との心の語らいの場が出来上がるのである。

 十三日の夕方、家族揃って玄関でオガラに火をつけて「迎え火」を焚く、十六日(十五日のところもある)には送り火を焚くのだが、どちらも精霊様の足元が暗いと大変だろうから、明るく道を照らしてあげようと云う思いやる心の表現なのである。  麻は私達の先祖にとって衣類の最も大切な繊維であった。この麻をとったあとの乾燥した白く美しいオガラには、清らかさと共に、祖先の苦労を偲ぶ縁でもあったようである。

 お風呂に入ってさっぱりとした浴衣姿の家族が「迎え火」を焚く風景は、近頃ではめったに見られない風流なものである。

 十三日、十四日、十五日、お盆の三日間は、お正月と共になんとなくゆったりとした日々である。その昔、農耕を生活手段として来た祖先にとってもこのお盆の三日間は、忙しい田の草とりも終わって一段落、先祖代々が重ねて来た苦労を共に感じて、立派な収穫を祈る時でもあった。

 この時にはお坊さんが「棚経」に来てくれる。その時にはみんないっしょにお経をあげ、お題目を唱えて、祖先に感謝の誠を捧げ、今日ある自分達の生き方を静かに見つめ、心のよりどころを確かめることである。  昔からお盆中には精霊棚の灯明は絶やしてはいけないものと云われて来た。せめて朝夕だけでも家族みんなでお線香をあげて手を合わせよう。またお水とか、お供えものも心掛けて取り替えてお供えするようにしよう。よく腐った果物がいつまでも供えてあるが、私達が食べられない物を精霊様にお供えする心には対話は生まれてこない、失礼なことだと思う。

 この三日間に、私達の縁あるお宅で、新盆を迎える家に歩を運んで、ご冥福を祈ってあげたいものである。単なるお付き合いでなく、形にとらわれずに心のこもった訪問をするように心掛けたいものである。

 十六日(十五日)の夕方、再び家族と一緒にに、「送り火」を焚く、「私達はこのお盆の間に亡き人々と何を語ったか、何を学んだか、そして未来に生きるであろう子孫に、何を伝えたいと思っているか、何を托そうとしているのか。

 自分だけの利己心だけではなかったか。身近かな者達への愛欲だけにもとずくものではなかったか。それともお盆の心が教えている仏の教えに生きる自分であったかどうか。深く反省の一時としよう。そこにはきっと私達は「亡き人々と共に生きている」という人生の歓びがひたひたと感じられてくることだろう。

 お盆の行事の中で、もう一つ大事な行事がある。それは「施餓鬼」である。

 お寺で行われる「盆施餓鬼」はお盆前にあるいは、お盆後に行われるところが多いようだが、これは餓鬼道に落ちて苦しむものに手をさしのべるための行事で、「施し」に生きることを身につむ行事である。この頃では「施餓鬼会」も祖先の供養と考えられているけれども、実は広く四聖六道及ぼすことである。

 祖先-私-子-孫とつながるタテの関係に対して、施餓鬼は私達の横に広がる人々、共に働き、苦しみ、悩み、喜び、楽しむ、同じ人々に想いを馳せる行事である。だから参詣した人々に供物を配ったり、知らない人々と同席し、知らない人のご回向に共に手を合わすのも「関係ない」と思われる無縁の人々の為にお塔婆をたてて供養するのも、、こうした心を表現しているのである。そうした心を得た人は一本一草にも心を感じ、公害や、交通事故で苦しむ人々の声も聞こえてくるだろう。そうしたことのわかる人は、どんなに苦しい時でも、困難に突き当たっても、へこたれず、仏様のように平安でいてしかもたじろがず、「大きな心」が得られるだろう。しかしそれはなかなかなれないのが私達凡夫の悲しさ、それだからこそ、そうした心を何時も願い、行っていかなければならないこと。

 お施餓鬼法要にはみんなで参詣し、祖先供養と併せて、無縁の人々にも供養の誠を捧げたいものである。  

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