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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

お盆行事はどのように広まったのですか。

布教研究所所員・見附市 如實院住職 田中隆寬

 お釈迦さまの弟子、目連さまが、餓鬼道に堕ちた母の苦しみを救った由来を説いた『仏説盂蘭盆経』の解説によつて始められた行事がお盆です。

 日本では、『日本書紀』などの記録によれば、推古天皇の六〇六年、斉明天皇の六五七年、聖武天皇の七三三年に父母追孝のためにお盆の供養を行った様子や、その供物について記されていて、最初は宮中の年中行事でした。

 それ以後、平安期・鎌倉期・室町期・江戸期と時代を経ても、宮中および将軍家における仏教行事として継承されていました。鎌倉末期頃には、先祖供養のために読経したり、供物を献ずるということが民衆にも広まっていて、それまでの民間信仰であった年のなかばに神を迎える行事たま(「魂まつり」などと呼ばれていたようです。)とも融合しました。こうして、一般にも七月の供養は定着したと思われます。

 先祖の霊が歳神(年神)、歳徳神、正月さまなど)になって子孫の生活を見守り、正月と七月に子孫のもとに来てくれる信仰と、目連さまの母の供養の日が七月十五日というお盆の行事と結びついたのです。あくまでもお盆は仏教行事ですが、日本の場合は、その広がり方の背景に民間信仰も関わっていたといえるでしょう。

 なお、各家ごとに精霊棚を作り、菩提寺の僧に棚経をあげてもらって供養するという形ができ上がったのは、江戸時代の寺請制度ができてからのこと(一六七〇年頃)です。

 一六一二年、幕府はキリスト教の禁教を布告し、翌年には宣教師らを海外に追放することを目的にした「伴天連追放令」を出して各地でキリシタン弾圧が始まりました。聖母像を踏ませて、キリシタンかどうかを判定する「踏絵」が行われるようになったのです。「踏絵」は、とくにキリシタンが多かった九州にほぼ限られていましたが、その後、全国でキリスト教禁教を徹底する名目で行われたのが、「宗旨人別帳」の作成です。

 宗旨人別帳は、家ごとに戸主を筆頭に家族・使用人の名や年齢を記し、寺が戸籍証明を請け負うための帳簿です。その作成を通して、人々は菩提寺を定められました。これを寺請制度といいます。

 江戸幕府の政策によって、お盆をはじめ仏事は今まで以上に大切になりました。菩提寺と檀家の関係が深まることで棚経も広まっていったのです。

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