• ホーム
  • 法華宗(陣門流)とは
  • 法華宗の行事
  • 法華宗寺院
  • お問い合わせ

仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

お会式に日蓮さまのお像にお綿をかぶせるのはなぜでしょうか?

松吉慶憲

それは、四大法難の一つ、小松原の法難に由来します。

 文永元年(一二六四)十一月十一日、安房の国に帰郷されていた日蓮大聖人は、暮れなずむ道を、日朗聖人・鏡忍房・乗観房・義浄房らのお弟子十人ばかりをお伴として歩んでおられました。天津の領主、工藤吉隆から招かれてその館に向かう途中だったのです。

 ところが、東条の郷の松原大路(小松原)に差しかかった時、その一帯の地頭だった東条景信が郎党(ろうとう)(家来)どもを引き連れ、大聖人ご一行に突然襲いかかったのです。

 当時の日本は、武士・寺社・公家・皇族などが、荘園や公領と呼ばれる領地を支配していました。地頭とは、その領主たちから年貢を集め、その地の管理や治安維持などをするために、政府である鎌倉幕府から任命された武士のことです。

 景信は、たいへんな念仏の信者で、予(かね)てから浄土教を批判される日蓮大聖人を苦々しく思っていました。そればかりか、地頭としての権力を使って、ある領地を奪おうとしたのを大聖人のお力によって邪魔され、増悪の念が身を焦(こ)がし、いつか目に物言わせてやると機会をうかがっていたのです。

 大聖人側は、一大事と駆けつけた領主吉隆の加勢もあり、奮戦の末、東条勢を撃退し、景信は落馬し、その怪我がもとで、後日死亡しました。しかし、乱戦の中で吉隆と鏡忍房は亡くなられ、大聖人ご自身も怪我を負われてしまいました。

 一説によりますと、一旦、岩屋に隠れ、寒さをしのいでおられましたが、傷の手当てを、と生き残ったお弟子たちが大聖人を工藤家の館へとお連れする途中、一人のお婆さんに出会いました。大聖人のまだ生々しい眉間の傷を見ると、そのお婆さんは、自分につけていた真綿(まわた)を一枚、大聖人の頭に掛けてさしあげました。しかし、流れ出る血がみるみる内に真綿を真っ赤に染めてしまったので、もう一枚掛けてさしあげました。

 そして、後世、このような法難にもくじけず、身命を賭して法華経を広めて下さった大聖人のご報恩感謝の気持ちから、お会式には大聖人のお像に白と赤の真綿を、寒さの薄らぐ春のお彼岸か四月上句までお掛けするようになったのです。

一覧に戻る


上へ戻る