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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

お経は覚えないといけませんか?。

布教研究所助手・津島本蓮寺住職 松本誠心

 とくに覚えないといけないという訳ではありません。お仏壇の前で誦(よ)んでいるうちに自然に身についていきます。方便品(ほうべんぼん)・自我偈(じがけ)など知らないうちに覚えていた人も大勢いらっしゃると思います。  

 お経を読む前に唱える開経偈(かいきょうげ)に、 無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ぐう)にも遭遇(あい)たてまつること難(かた)し。我今見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来(にょらい)の第一義を解(げ)せん。 とあります。

 仏の教えははかりしれないほどのすばらしい教えであり、その教えに出会えることは難しい。仏の教えに出会えた今、真実の教えを得たい。

 そう説かれてあるように、まずは感謝してふれましょう。

 また、神力品(じんりきほん)に、  

如来の滅後(めつこ)に於(お)いて、まさに一心に受持(じゅじ)し、読誦(とくじゅ)し、解説(げせつ)し、書写(しょしゃ)して、説の如(ごと)く修行すべし。  

 とあり、仏の滅後には一心に、経に出会い、読み、そらんじ、理解し、書を写すというさまざまな修行のあり方を示しています。  

 人の手によって書き写すことでしか経典を弘めることができなかった時を思うと、経本の一字一字がとてもありがたく見えてきます。  

法華宗おつとめ要典にある日蓮大聖人のお手紙の『曽谷入道殿御返事(そやにゅうどうどのごへんじ)』には、

 此(こ)の経(きょう)の文字(もんじ)は悉(ことごと)く生身妙覚(しょうしんみょうがく)の御仏也(みほとけなり)。然(しか)れども我等は肉眼(にくげん)なれば文字と見る也。例せば餓鬼(がき)は恒河(こうが)を火と見る。人は水と見る。天人は甘露(かんろ)と見る。水は一なれども果報(かほう)に随(したが)いて別別也。此の経の文字は盲目(もうもく)の者は見えず。肉眼(にくげん)の者は文字と見る。二乗(にじょう)は虚空(こくう)と見る。菩薩(ぼさつ)は無量の法門と見る。仏は一一の文字を金色(こんじき)の釈尊(しゃくそん)と御覧(ごらん)あるべき也。即持仏身(そくじぶっしん)とは是(これ)也。

とあります。  

 お経を、受持(じゅじ)・読(とく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写(しょしゃ)するにもただの文字として見るのではなく、仏としての感じ方、つまり一つ一つのお経の文字を光り輝く釈尊として心に感じとれるようになりたいものです。そうすれば経文(きょうもん)を、身につけるように、自然に覚えられるのではないでしょうか。

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