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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

「臨終」とはどういう意味ですか

布教研究所助手・谷中 本通寺裡 田邊尚志

 よくテレビドラマなどでお医者さんが、今まさに息絶えた人に向かって、「ご臨終です」というシーンをみたことがあると思います。これをみると「臨終」とは死ぬということなんだなと思うことでしょう。しかしながら、仏教では「臨終」とは「臨命終時」、すなわちいよいよ死期が差しせまった時から、寿命の尽きる間際までを指し示す言葉です。

 日本人は昔からこの「臨終」という時間のあり方に大きな意義を持たせてきました。死に臨んで心乱れることなく、仏道の成就を正しく念じつつ、死ぬ瞬間を迎えること(これを「臨終正念」といいます。)を願ったのです。

 平安時代以降「厭離穢土 欣求浄土」を標榜し、阿弥陀仏の西方極楽浄土に生まれ変わる(往生する)ことを最高の目的とした浄土教が全国に爆発的に広がりました。人々は極楽往生を願い、臨終正念であれば命尽きるその時に阿弥陀仏が迎えにくると信じ、そのために臨終に何をなすべきかといった決まりまで作られました。臨終正念であることが極楽往生の証とされ、さらには、死ぬ瞬間に良い香りや紫の雲など不思議な現象が起こったり、死に顔が安らかであることなどが臨終正念の証拠であると信じられ、臨終正念という考え方は一般化されました。

 日蓮大聖人にとっても臨終のあり方は重要な関心事でありました。「先臨終の事を習ふべし」と志す若い頃の大聖人がまのあたりにした浄土教信者の臨終のさまは、狂い死んだり醜い形相をしていたりと、とてもとても臨終正念とは思えない死に方でした。一人も漏らさず阿弥陀仏は救ってくださるとの浄土教の教えに疑問を抱いた大聖人は、深い仏教研鑚の後、法華経こそが我々の死後も救済を約束してくれる唯一の教えであるとの確信に達し、弟子や信者に法華経による臨終正念を勧め、また自らの臨終正念によって法華経信仰の正しいことを証明せんことを願い、弘安五年(一八二八)年十月十三日、多くの弟子に見守られながら心静かに法華経を唱えつつその生涯を閉じられました。

 日常の正しい信仰が大切なことはいうまでもないことですが、科学・医学の進歩によって死に至る病を発見・診断できることの多い昨今においては、死の不安に対して臨終のあり方について今一度考えてみる必要があるのかもしれません。

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