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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

施餓鬼とは、どういういみですか。

布教研究所所員・宝塚 妙玄寺住職 長谷川宣正

      





  施餓鬼とは、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる者に、施しをするという意味です。『救抜焔口餓鬼陀羅尼経」というお経にその由来があります。

  お釈迦さまの十大弟子のひとりである阿難は、ある日、口から炎を吐く焔口餓鬼に「おまえは三日後に死んで我々と同じ餓鬼道に堕ちる」と言われました。恐れおののいた阿難が、どうすればその運命から逃れられるかと訊くと、焔口餓鬼は「明日中に無数の餓鬼に飲食を布施し、仏法僧の三宝を供養すれば、無数の餓鬼も救われ、その功徳でお前の寿命ものびるだろう」と答え、姿を消しました。

  しかし、無数の餓鬼に一晩で飲食を用意するなんて普通できません。困った阿難はお釈迦さまに教えを請い、施餓鬼の法によって無数の餓鬼を救い、自身も餓鬼道に堕ちずにすみ、長寿を得たということです。

  ここに出てくる餓鬼とは、仏教に説かれる十界の内の、地獄・餓鬼・畜生という「三悪趣」の一つで、飢えと渇きに苦しむ者のことです。食べ物や飲み物を口に入れようとしても、すべて燃えてしまうので、お腹がいっぱいになることがないのです。なぜすべて燃えてしまうのでしょうか。

  日蓮大聖人の御遺文に「この経の文字は皆ことごとく生身妙覚の御仏なり。しかれども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る。人は水と見る。天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随いて別別なり」(曽谷入道殿御返事)とあります。つまり、感謝の思いを持っていただけば、ただの水も最上の飲み物になり、自分の欲に振り回されていると、いくら飲んでも満たされず、水が火に見えるということでしょう。

  もちろん生きている限り、全ての欲を捨て去るなんてことはできません。しかし、必要以上にに物を求めることは苦を生じる原因です。これを求不得苦(欲しい欲しいと思っても、それが手に入らないという苦しみ)といって、八苦のひとつに数えられています。「知足(足るを知る)」という、いま有るもののありがたさに目覚めることであると教えられています。自分の境遇に感謝の気持ちを持って日々を暮らす、ということが「足るを知る」という態度ではないでしょうか。折にふれて心がけたいものです。

  阿難が出会った焔口餓鬼とは、自分の心の中にある「欲」ではないでしょうか。その「欲」に支配されて心が餓鬼道に堕ちてしまわないように、お釈迦さまは阿難に施餓鬼の法を授けられたのです。阿難が救われたということは、簡単にいえば、ちょっと立ち止まって自分本位の「欲」に振り回されている状態に気づいた、ということだったのではないでしょうか。

  お盆の時期に、お寺では施餓鬼法要がとり行われます。もともと施餓鬼法要は、お盆に限ったものではなく、随時行われていたそうですが、それだけ重要な意味を持つ法要だということでしょう。

  一般的には、本堂中央に精霊棚を設け、餓鬼飯・水を供えます。餓鬼飯には小幡を数本立て、経文の一句を書き、中央の小幡には「南無妙法蓮華経有縁無縁法界万霊」と書きます。また、四隅に「施餓鬼幡」という青・黄・赤・白・黒の五色の大幡を立てます。四枚の施餓鬼幡にはそれぞれ如以甘露灑・除熱得清涼・如従飢国来・忽遇大王膳(甘露をそそがれることにより熱が除かれ清涼を得るがごとく・飢餓の国から来た人がたちまち最高のご馳走の前に座るがごとく)と書かれています。これは『法華経授記品第六』で、お釈迦さまの弟子たちが、お釈迦さまから「あなたは未来世において成仏する」という予言を受けた、その悦びを表現した言葉です。施餓鬼法要の時に、導師はこの言葉を唱えながら卒塔婆に漉水されます。

  この言葉について日蓮大聖人は、「また施餓鬼の事仰せ候。法華経第三に云く、如従飢国来忽遇大王膳云云。此の文は中根の四大声聞、醍醐の珍膳を音にもきかざりしが、今経に来て始て醍醐の味をあくまでになめて、むかし飢えたる心を忽にやめし事を説き給う文なり。もししからば、餓鬼供養の時はこの文を誦して南無妙法蓮華経と唱へてとぶらひ給ふべく候」(四条金吾殿御書)と仰り、法華経の教えに出会えた法悦を表したものであると説かれています。

  つまり施餓鬼法要とは、法華経の信心・お題目をもって無数の餓鬼を救ってあげたいと思うことで自身が餓鬼道に堕ちることを防ぎ、その功徳によって自分に縁のある方々や、ひいては全ての霊位を供養するという、私たちにとって、とても大切な年中行事なのです。

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