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仏教質問箱布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より

宗祖大聖人と遠州

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  宗祖大聖人はご自身の出生については、佐渡御書(定本六一四)に

 日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ施陀羅(漁者)が家より出たり。

 と仰せられ、父母のご出身にも触れられてはいないが、「日蓮大聖人註画讃」(本国寺版)には、日蓮大聖人の姓は三国氏といい、父は遠江国の貫名重実の次男重忠であり、その重忠の第四子であるとされている。

 また、真偽再評とされている御聖人御系図御書(定本二〇四五)には、

 遠江貫名五郎重実と云うまでは十一代也。重実其子三人有り。嫡子は貫名仲太、 次男は仲三、同じく三男は仲四これ也。・・・・次男仲三の其子に日蓮是也

とあり、宗祖の御父君は遠州の人と説かれている。 貫名という所は、現在、静岡県袋井市に上貫名という地名で残り、そこにhs宗祖のご両親のお墓を守る、貫名山妙日寺という寺がある。

一.井桁に橘紋

 貫名山妙日寺霊廟略縁起によれば貫名の先祖は、引佐郡(県西郡)井伊ノ谷の地に住まわれ、共資公の代、男の子がなかったので、産神、八幡宮に祈願をしたところ、翌年元旦に神前の御手洗所に玉のごとき男の子がおり、神官はわが子のように養育した。やがて成長したこの子を共資公は養子とされたという。  それから、この奇瑞を尊び、御手洗の井戸のそばより出現したので井伊氏と名乗り、家紋を井桁とし、この井戸のそばに橘の木があったところから、井桁の中に橘を入れ、井桁に橘の紋章が生まれたという。

 以来、貫名家は井桁に橘の紋所を使用していたというところからか、井桁に橘の紋が、宗祖ゆかりの紋として、日蓮門下の寺院の荘厳具や、御会式の万灯、講中の提灯などに使用されるようになったのではなかろうか。

 「宗祖日蓮大聖人涅槃図」や、北斉筆による「日蓮上人池上に於いて御入滅御座の図」などに描かれている。列座の貫名藤平重反、貫名籐太重政の両氏の絵像の袖に付けられている紋所はみな井桁橘の紋が付けられている。  日蓮宗事典を見ても井桁に橘の紋の解説は見当たらないが日蓮門下寺院にはどこでも使われている紋所である。

 丹羽基二著「家紋大図鑑」によれば、橘を用いているものもかなりあるがとして、  井伊氏伝には「祖・共保は井中よりあらわれた化人である。井戸より現れると きは井桁にタチバナの実一つあったのでこれを記念とし、家紋とし、井桁を幕 紋にした」という(寛永諸家系図伝)。日蓮宗の寺院でも「井桁にタチバナ」 を用いているが、祖師日蓮がやはり井伊氏と同じく藤原氏良門流だからである。 とあり、貫名家が井桁に橘の紋を用いていたとしている。

 先師にうかがったお話に、宗祖が橘の実を好まれたからだと聞かされたこともあり、日蓮劇の中で、日朗聖人が土牢で役人からもらった橘を幕府の赦免状をとどけるとき、ふところにしのばせて、さしあげる場面があったことも覚えている。 宗祖に対する諸人の供養品の中に「柑子」(こうじ)というものがあるが、これは唐橘のことで、上野殿御返事に「柑子一篭」(定八三五)、四条金吾殿御返事に「柑子五十」(定一〇九二)、松野殿御消息「柑子一篭」(定一四四三)、上野殿御返事「こうじ一こ(篭)」(定一八五七)があり、時期も七月から、翌年の二月に及び、柑子が耐寒性ある果物であったことがうかがえる。

 果物類で柑子が非常に多いのは、やはり宗祖のお好みの品であったのではなかろうか。

二.遠州の檀越

   文永八年十月にかかれた「転重軽受法門」(定五〇七)の対告衆の中に金原法橋(きんばらほっきょう)御房という人かある。

 後に入道となって浄蓮房と称された人であるが「統記」に金原法橋は遠州の人とあるそうで、一時下総小金原に住して別当職に任ぜられていて人。宗祖が若宮の富木邸において一百日転法輪のみぎり、講筵に連なりて、宗祖の直檀となる。弘安六年に遠州蒲の庄(現在の浜松市(東南部))の領主となった人で、天竜川町の妙恩寺は氏の邸宅跡に建てられたという。

 本化聖典大辞林によれば、その後永く金原氏を称えて、遂に遠州の金原氏の初祖となったとあり、近くは治山治水に功績のある金原明善をその一門であるという。  また袋井の貫名とは南西に位置するところに新池という地名がありここも宗祖ゆかりの地という。

 弘安二年五月に「八木(こめ)三石送給云々」の新池殿御消息の新池殿は、新池左衛門尉のことで、現在の新池の邑主であった。

 ここまで御渡り候し事、おぼろげの縁にはあらず。宿世の父母?、昔の兄弟に ておはしける故に思い付かせ給う?(定一六四三) とありまた、

 度々の御供養云々-中略-此僧を解悟の智識とたのみ給いてつねに法門御たづね候べし(定二一二七)

ともあり、たびたび身延を訪れて宗祖に法門の化導を給わった人といえよう。新池殿は、金原法橋によって入信し、その妻も落髪して新池尼と称したとある。今、新池左衛門尉の邸宅跡に等身大の日蓮聖人像をお祀りしている教会がある。

三.むすび

 このように宗祖と遠州地方の深いご縁を認めることができることは、遠州に住む者にとってまことに有難いことである。
 尚、宗祖がお若い時、叡山への遊学等に向かわれた折には、この遠州の地を歩まれたことはまちがいない。そのことを思うにつけ、遠州における宗祖の事跡がまだまだあっていいのではなかろうかと思う。

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