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日蓮大聖人のおことば 布教誌『宝塔』に連載中の「日蓮大聖人聖訓カレンダー解説」より

菩提心を発す人は多けれども退せずして 実の道に入る者は少し

 六月の"おことば"の前には「魚の子は多けれどもいをとなるは少なく、菴羅樹の花は多く咲けども果となるは少なし、人も亦此の如し・・・・」とあり、世の中には数多くあっても完全に成長し、結実して、有意義に存在して行くものは少ない。人間の信仰心にしても、同じことで仏の教を聞いて信心を発し、仏様と同じ悟の境界に入りたいと思う人は、多勢いるが、時間がたつにつれ、修行を怠り、なまけたりして、折角夫々が仏になれる本質を持っていながら、悟に入ることが出来ない。
 信仰とは一時的なものでなく、持続することが肝要である。火の燃え上るが如く、一時的には全てを焼き尽す様な勢であっても、時がたつと残るのは灰のみと云うのでは仕方のない事である。水の如く、方円の器に従うと云はれながら、大洪水の如き底力を秘め、天から降っては萬物を潤し、田畑に益し、飲料となり、物を浮べ、遂には大海に至る。一瞬のよどみもなく、最終の目的に向って一歩一歩前進して行く。信仰の道も、至難の業かも知れぬが、水の如くありたいものである。さればこの"おことば"の後々は「・・・・すべて凡夫の菩提心は、多く悪縁にたぼらかされ事にふれて移り易きものなり」と述べられている。今日は眠いから、とか云う些々いな事から、信仰を捨てぬば命をとる、と云う様な重大な事まで、大小の差こそあれ、艱難を乗りこえて、信仰を持続することは難しいが、しかし持ち続けなければならない。折角菩提心を発したのであるから、それを続けて行かねば何の価値も失くなってしまう。それ故に信心とは持つにあり、と云はれるのである。

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